よく遊び、よく学べ

アラフォー・高卒・三児の母が、通信教育で教員免許(小学校&特別支援)取得を目指す日常。

「保育園落ちた、日本死ね」の前に、子どもたちが自ら命を落としているということ

昨日は「こどもの日」だったわけですが、
こどもの日だからと

bylines.news.yahoo.co.jp

このような記事。

中学生の自殺者数が17年ぶりに100人を超えたというもので、
人口当たりの比率も記事の中でグラフ化されています。
人口比で見ても増加傾向にあるようです。

そして、
学校や家庭、友人関係から逃げても良いよ、というメッセージを発信していらっしゃるのだけど。

思うに。
命を絶ってしまった彼らにとって、逃げる方法が「自殺」だったのではないかと。
同じようにこれから「死」を選択しようとしているかもしれない子どもに対して、
「逃げても良いよ」と言われたら…。

 

悲しくも自殺してしまった子たちには、辛いって素直に泣ける場所がなかったんじゃないかなって、私は思うのです。
私もそういう経験をしたことがあるので、少しだけわかるような気がします。

 

 

内閣府の調査では
小・中学生の自殺原因は、「学業不信」と「家庭からのしつけや叱責」「家族関係の不和」が上位にあがっていて、じつは「いじめ」の割合は少ないのです。
「小・中学生の自殺は、家庭生活に起因するものが多い」と分析されています。

http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/whitepaper/w-2015/pdf/honbun/pdf/1-2-4.pdf

内閣府「自殺対策白書」より)

 

自殺をしてしまう(死にたいと思ってしまう)ほとんどの子の心理は、
「自分はダメな(価値のない)人間だ」と思い込んでいます。
命を軽くみているからだ、という人もいますが、違います。親に大切にされている命だからこそ、自分はダメな人間で生きていく価値がなくて申し訳ない、そう思うのです。

 

そして、子どもにとって家庭とは本来何があっても全てを受け入れてくれる絶対的存在なのです。特に母親なんです、お母さんのお腹から産まれてきたのだから、帰る場所はお母さんなんです。(もちろんこれが100%で絶対では無いということは付け加えておきます)

子どもは、産まれると3歳くらいまでの間に「愛着形成」がされていきます。
これは以後の発達にとっても重要で、これが健全に育まれないと将来問題になると言われています(ボウルビーの愛着理論)
これが俗に言う「三歳児神話」に繋がるのですが。
ただ「3歳までは母親の手によって育てられなければいけない」というのは偏った見方で、大切なのは「母親」という部分ではなくて、「3歳まで」という部分なんです。
3歳くらいまでに「愛着形成」が行われるのが理想の発達であって、それまでに形成されないと以後の発達に問題が生じてくるのです。それは「愛着形成」の上に以後の発達が成り立っているからです。
「愛着形成」とは保育者(主に母親)との絶対的信頼関係で、人格形成においての基礎となります。そしてその上に、「自己肯定感」という土台が形成され、自立へと向かっていくのです。基礎土台がしっかりしていれば、困難に立ち向かえる強い大人になれるのです。
しかし「愛着形成」や「自己肯定感」という基礎がしっかりしていなければ、その上にどんな立派なものが乗ったとしても崩れやすくもろいものになってしまうのです。

 

小・中学生の自殺原因を思うと、やはり基礎土台である「愛着形成」と「自己肯定感」が不十分であったのではと私は思います。

 

今の日本は、乳幼児期の保育・教育に力を入れているようには思えません。
親世代を働かせたい国、子どもの人格形成よりも自分のキャリアを優先したい親、
そういう社会情勢が「こどもの自殺」を増やしているんじゃ無いかとさえ思うのです。
保育所でも優れた環境であれば、保育者によって愛着形成はされるでしょう。
しかし現状は0歳児では3人に1人の保育士、1歳児になると6人に1人の保育士です。数の上では愛情は3分の1、6分の1です。
もちろん、保育所から帰宅してからの時間に家庭で愛情を育むことが出来ればい良いのでしょう。親子の関係性は時間量ではないという調査結果も出ていたように思います。
しかし、仕事から帰宅して100%子どもと向き合える時間のある親はどれくらいいるでしょうか。子どもらしい生活をさせてあげられている家庭がどれくらいあるでしょうか。 
親が働き、子どもは他人に育てられる、それが本当に正しいと言えるのでしょうか。
「経済的に仕方がない」と言いますが、だからと言って親子を引き離すことが最良だとは思えません。

そんな社会に、こどもの未来は輝いているといえるのか、
こどもの自殺は社会への警笛だと思えてなりません。

子育て支援」というものが、大人目線ではなく、子どもを主体として考えていくべきではないかと常々思っています。