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よく遊び、よく学べ

アラフォー・高卒・三児の母が、通信教育で教員免許(小学校&特別支援)取得を目指す日常。

介護等体験 特別支援学校編

おひさしぶりです(笑)

3ヶ月ほど放置してました。

でも毎日アクセスがあるので、過去のエントリーが誰かの何かのためになっているのかな、と思うと嬉しい次第です。

そんなわけで、現在は検索でこのブログにやってくる人が9割で、その検索ワードが「特別支援学校(高等部)」と「教員資格認定試験」がほとんです。

今年度の教員資格認定試験、2次が今週末のようですね。これを見に来た受験予定の皆様、頑張って下さい。

 

ちなみに。

検索ワードに「上地雄輔 嫌い」ってのもありました(笑)

嫌いなら調べなきゃいいのにね。

 

ってことで前置きはこの辺で。

 

 小中免許取得には介護等の体験が必要

 先生の免許取るには「教育実習」するんだってことはよく知られていると思うのですが。自分が子供のころにも学校に毎年来ましたしね。

これとは別で、平成10年度から小中の教員免許を取得するものには必須となったもので、特別支援学校に2日間、社会福祉施設に5日間の「介護体験」を行うものです。

資料1-3:平成9年介護等体験特例法の概要:文部科学省

 

その趣旨は

教員が個人の尊厳及び社会連帯の理念に関する認識を深めることの重要性にかんがみ教員の資質向上及び学校教育の一層の充実を図る

ってことらしいです。

この法律ができた根拠やその実態については様々言われているようですが、その話は次回。

 

 特別支援学校高等部へいってきた

この介護等の体験は教育実習と違い、ほとんどの都道府県はその都道府県から体験先が指定されます。私が体験先に指定されたのは、知的障害の高等部でした。

知的障害と言っても、私が体験した学校は軽度知的障害を対象としており、卒業後は一般企業に就職することを目標としている高等部で、その多くは地域の小中学校の支援学級や普通級を卒業してきた生徒さんでした。

 

「軽度知的障害」とは。
知的障害はいわゆるIQが70以下の場合を言い、その度合いによって軽度・中度・重度と分けられます。
軽度とはIQ50〜70のものと言われています。

ちなみに、IQ(知能指数)というのは、その生活年齢(実年齢)に対して精神年齢(発達年齢)がどのくらいの割合であるかを示したものです。なので実年齢=発達年齢であれば100となります。

 

 

そして、

「介護等の体験」とは「実習」ではなく「体験」です。
私が行った学校の生徒さんたちは支援学校と言っても、いわゆる「介助」というものは必要がなく、一見すると普通の学校と同じです。
ですので、私は生徒の皆さんと一緒に授業(実習授業)を受けるという感じで2日間を過ごしました。

この子たちは何を思い過ごしているのかをとにかく知りたいと思い、一人でも多くの生徒さんとコミュニケーションを取りました。

教職だけを取っている人とは違って、私には発達障害に関する知識や経験もあるという自負もあったので、自然に彼らに関われたように思います。

 

この学校のカリキュラムは3年間を通して就労できる人材に教育するということでしたので、授業の大半は実習です。企業への実習も含めて学校の中でも、ものを作ったりしながら企業内の疑似体験をしている様子でした。
その実習中だけでなく、1日の生活を通して「職業人」としてもモラルやマナーを身につけさせている様子でした。

挨拶の仕方や返事の仕方、人との関わり方、その時々でどうやって人と関わればいいのかを丁寧に指導されていました。

少ないですが教科の授業もありました。しかしその内容は「高等教育」のそれではなく、生活に必要なごくごく基礎的な内容でした。

 

2日間を通して思ったことは、「子どもたちの目が生き生きしている」という事でした。この子たちは、おそらくは「できない子」として小中を過ごしてきたのでしょう。

でもここにきたら「できること」がどんどん増えていくんです。

 

障害とか特別支援とかそういうのに関係なく、「できる」ってみんな嬉しいし、そうやって人は生きているんじゃないかって思うのです。

そして、その「できる」は人それぞれ違って、その「できる」を合わせていくと、「みんなでできる」に繋がるわけです。

 

たったの2日間でしたが、思う事がたくさんありましたし、時間が足りないくらいでした。

なにより、「どんな子も必ず成長するんだ」という確信を持つ事ができました。

 

支援って「やってあげる」ことではなく、

「自分でできる」を増やしてあげる事だと思っています。

発達障害児が特別支援学校高等部に行くと大学進学ができない?!高IQ児に対する特別支援がこの国にはないという事実

先日、特別支援学校に関して大変驚いたツイートがありました。

 

 

特別支援学校高等部(知的障害)を卒業すると進学ができないシステム…。

 

まず、特別支援学校高等部、というのは、高等学校とは法律上違う学校です。

学校教育法
第一条  この法律で、学校とは、幼稚園、小学校、中学校、義務教育学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校、大学及び高等専門学校とする。 

 というように、定められていて、特別支援学校の高校にあたる部分は、「特別支援学校」の「高等部」という位置付けです。
学歴は「特別支援学校高等部卒業」となります。

そして、学校教育法により、特別支援学校高等部も大学入学資格(高卒同等)がみとめられています。

大学入学資格について:文部科学省

 

しかしながら、大学の「受験資格」については、大学側が定めることとなっており、
どこかの大学が「特別支援学校高等部卒」は受け入れない、と返答されたのだと思われます(ソースがツイートのみのため確実なものとは言えません)

 

そうなると、「高卒認定試験(旧大検)」に合格することで受験資格を得ればいいのか、となるわけですが、
特別支援学校高等部は、文科省が「大学入学資格あり」としているため、高卒認定試験の受験資格がなくなります。

受験資格:文部科学省

 

というわけで袋小路にはいってしまった、というツイートだったわけなのですが、
ここで問題となるのは、特別支援学校卒だからと受験資格がないとした大学側です。

これは、おそらく「障害者差別解消法」に違反していると考えられます。

 

ただ、支援学校でも、身体・盲・聾・病弱で知的重複でない場合は、支援学校で高等学校に準ずるカリキュラムが組まれているのですが、知的(と知的重複)の場合、その発達度合いに合わせたカリキュラムとなっている場合がほとんどです。

「特別支援学校高等部学習指導要領」
教育課 程の編成に当たっては、生徒の特性、進路等に応じた適切な各教科・科目の履修ができる ようにし、このため、多様な各教科・科目を設け生徒が自由に選択履修することのできる よう配慮するものとする。また、教育課程の類型を設け、そのいずれかの類型を選択して 履修させる場合においても、その類型において履修させることになっている各教科・科目 以外の各教科・科目を履修させたり、生徒が自由に選択履修することのできる各教科・科 目を設けたりするものとする。

 このカリキュラムが、大学を受験するための単位が足りないと言われている部分なのかもしれません。

 

やはり、知的障害があるということは大学という高等教育を受けることを想定していないと考えられます。

平成25年度障害者白書によると、知的障害者社会福祉施設等入所・通所(66.7%)、就職(28.4%)とのデータがありました。

第1編 第1章 第3節 2.卒業後の進路|平成25年版 障害者白書(全体版) - 内閣府

 

ちなみに、発達障害は特別支援では知的障害のカテゴリに入ります。
しかし、発達障害の場合、その中には知的に遅れがみられない人も含まれています。
それから、発達障害は発達に大きな差異があることが特徴で、ある分野は平均以下の知的でも、ある分野は平均以上の知的だったりし、総合評価はその平均値をとりますので、その値が平均以下だった場合、知的障害となります。知的障害でもある分野は人より長けている場合があるわけです。

 

そういった子が、特別支援を受けていて、その長けた分野をより伸ばしたいと思ったら、それこそ大学という高等教育を受けるべきなのですが、その進路は大きく狭められているのが現状です。

 

これらは、中学卒業時にも起こることで、中学で特別支援級に在籍していると高等学校の受験ができない自治体が数多くあります。

togetter.com

 

能力があるのに、なぜ、こんなことが起こるのか、
これは単に、特別支援が本当の意味での支援となっていないのではないからだと私は思っています。
発達障害の人々がこの社会で生きるのに、何に困りどうして欲しいのか、どうすることがこのような立場の人も活躍できる社会になれるのか、
もっともっと問題定義していかなけばいけないと思います。

 

余談ではありますが、以前はてなで話題となったブログ、

t-ritama.hatenablog.com

 

家庭環境により、国立大学に進学できるだけの実力がありながら、経済的な問題を抱えて学ぶことに苦戦をしいられている方です。

 

どうして、こんなに学びたいと思っている人たちが、安心して学ぶことができないのか、

この国は教育を受ける権利を平等に与えているはずなのに。

命を大切にするって、どうして?どうやるの?

とある、小学生(高学年)とその保護者対象の講演会をききました。
いじめを苦に自殺した子の親という方のものです。

必死に子どもたちへ伝えようとしているのは良くわかったのですが、モヤモヤしたものを感じたのも事実で。

まず、
「命が二つや三つもあると思っている子がいるらしいけど、命は一つしかないからね(だから大事にしてね)」

うーん。
命は一つしかないから大事にする?
もしも、この話を聞いている子の中に、実際に死を意識している子がいたとしたら(我が子は小3で意識していました)
そういう子が、そんな理由で、「じゃあ、死ぬのは辞めよう」と思うのだろうか、と。

まず、

「命を大切に」って実に曖昧だよね。
と私は思うのです。
大切大切っていうけど、
「大切にする」って何?どうやるの?

 

それから。
人に「言われて嬉しい言葉」と「言われて傷つく言葉」を子どもたちにカテゴライズさせていました。
「ありがとう」「いい子だね」は嬉しい言葉だけど、
「あっちいけ」「うざい」は傷つく言葉って。

だけどさ、
それって、その言葉を使うシチュエーションや相手やイントネーションで、嬉しいか傷つくか変わるよね?
同じ環境で使われても、人によって感じ方ちがうよね?
ここで「この言葉は使っちゃダメ」って言い切っていいの?

それで、最終的に「みんなちがってみんないい」系の話を持ち込んできて、

それって矛盾してるよね?

 

みんなちがってみんないい、なら、言葉のカテゴライズなんかしちゃダメだよね。
教えるなら
「同じ言葉、同じ言い方でも、受け取る人やその人の立場・環境・関係性で受け取り方はみんな違うんだよ」
だよね?

さらに、

「理由があれば、誰かを傷つけていいのかな?」と子どもに問い、
「そんなこと許されるわけない」と呼び掛けました。

被害者の親として、そう思う気持ちはわかるけど、
そんな風に教えれば、ますます人とのコミュニケーションを難しくするんじゃないかって。
だって、自分の言動が、いつ誰を傷つけるかわからない、しかも、「決して傷つけてはいけない」
そんなプレッシャーを与えられて、どう人とコミュニケーションを取っていくんだって話です。

 

 

人は人である以上傷つくこともあるし、残念だけど傷つけてしまうこともある。
それでも、人はみんな違うから、自分と違う感じ方をする人もいるんだって、教えなきゃいけないと思うのです。

誰かに何かを言われたりされたりしたら、「嫌だ」ってちゃんと言おう。
まずはここじゃない?

 

そして、

なぜ命を大切にしなければいけないのか?

私は、自分を必要としてくれる人のために大切にするものだと思っています。

自分の命は、自分を思ってくれる誰かのためにあるのです。 

 

過去にも書きましたが、

 

wakaba0204.hatenablog.com

 

子どもの自殺原因のほとんどは家庭環境なのです。

 

 

「上を目指す」って言うけど、それって何の上?

「上を目指す」って言うけど、それって何の上?

みたいな台詞を聞いた覚えがあって、ドラマだったかなー、ネット上だったかなー、思い出せなくて、夜中にもんもんとしていました。

思い出せないことにね(笑)

 

その「上」ってのはそれぞれのスキルやキャリアの目標点みたいなものなんだろうけど。

 

例えば、

「偏差値の高い学校に入る!」

「上位大会を目指す!」

「タイトルアップを目指す!」

みたいなこと。

 

それはそれで目標があるのはいい事だと思うのだけど、

その目標が目的になってはいないだろうか?ってこと。

 

偏差値が高い学校に入る目的は?

上位大会に出る目的は?

タイトルアップする目的は?

 

 

 

それに、「上」である必要があるのか?って話。

目標って必ずしも「上」にあるものなのかなぁって。

「上」って、何の上?

人と比べた結果の上?だよね?

 

人より劣ってるって辛いけど、

人より勝ってるってのも実は辛いのになぁ。

 

心理学で、

ネガティブな感情を共感したり共有すると結びつきが強くなるって言われているけど、

その逆は共感されにくいし理解もされにくい。

 

だから私は、上何か目指す必要無いんじゃないのって思う。

 

自分ができること、自分にしかできないこと、そういうことを胸を張ってやればいいんじゃないのかな。

発達に偏りのある人たちが疲れやすいのはなぜか

お久しぶりです。。

 

最近、腰椎ヘルニア(座骨神経痛)と頚椎ヘルニア(頭痛・首痛・頚椎症性神経根症)を同時に再発しまして、痛みと戦っております。

痛みって、心と繋がっているんですよねぇ。
痛い痛いと思えば思うほど痛い。

そう、私はその昔、それまでどんな治療も平気だったのに、親知らずだって平気で抜いたのに、ある時下手な歯医者にあたって、麻酔もろくに効かない状態で治療されて、大人なのに大号泣したトラウマ。
その後、上手だという評判の歯医者に行くも、やっぱり麻酔が効きづらく、麻酔を追加するも、結局痛みを感じるまま治療されてパニックを起こした、という思い出…。
(現在は腕のいい歯医者さんと出会い、虫歯ゼロ、健康的な歯茎を維持しております)

麻酔って、気の持ちようで効き具合が変わるんじゃないかって。

私は子どもを3人とも帝王切開で出産しています。
1人目の時は個人産院で麻酔科医がいない中、腰椎麻酔(半身麻酔)のみで腹を切られました。
これが、
「なんかまだ完全に効いてませんけどぉー」って言っても
「なんか、痛いですけどぉー」って言っても、無視されて切り刻まれていき…。
お腹ん中がグニュグニュされている感覚がはっきり分かったという恐怖な出産でした。

その後の2人は大学病院で出産した為、麻酔科医との面談もあったし、その時に麻酔が効きづらくて辛い、という話をしたところ、
胸のあたりまで全く何も感じないという状態まで麻酔がかかりましたー!
(まあ、大学病院と個人産院の違いっちゃー、それまでですが)
その時に、麻酔科医に、
「(意識のある中でかける麻酔は)リラックスしないと効きづらいこともある」と言われました。

 

要するに何が言いたかったかというと、
「痛いの、痛いの、飛んでけ〜」は有効である。
ということ(笑)

 

 

で、本題。


 先日こんなツイートをしました。

 

そしたら、何人かの方がリツートやいいねを、してくれました。

多分、人と違うところで他人には理解されない疲労感をいだいていたり、それが自分でもわからないと悩んでいる方がいるんじゃないかなぁと。

 

他人の理解出来ないところで疲れているので、怠けているって思う人もいるのかもしれません。

 

ちなみに、私の場合ですが、

(あくまで私の場合であって、これが全てではありません)

  • 視覚情報や聴覚情報がありすぎる時
  • 多くの人と関わった時

これらの時に脳が疲れたなと感じ、ひとりになってクールダウンしたくなります。

クールダウンの仕方はいろいろですが、最近は誰とも話をしなくてもいい状況があれば疲労は回復します。

 

私ははっきりとした診断をもらったわけではありませんが、おそらくは発達の偏りのあるカテゴリーに入ると思われます(理由付けはいろいろありますが今回は省略します)

 

 

医師のつくった「頭のよさ」テスト 認知特性から見た6つのパターン (光文社新書)

医師のつくった「頭のよさ」テスト 認知特性から見た6つのパターン (光文社新書)

 

 

この本の中に、認知特性を調べるテストがあり、それによると、私の場合は、

「視覚優位者(3次元映像タイプ)」が極端に高く、「聴覚優位者(聴覚&音タイプ)」が極端に低い結果になりました。

(一般の人は極端な差異がありません)

 

視覚優位とは、目で見て物事を認知しているということです。私は3次元映像タイプなので空間的動的に処理するのが得意なようです。

そんな私が感じる感覚は、視覚に入ってきたものはどんどん脳が処理したがる、といった感じです。他人が見ていないところまで意識が向いてしまいます。

 

また、聴覚過敏を自覚しています。

これは音感とは違います。

周りで鳴っている音が同じレベルで一斉に耳に入ってきます。一つ一つの音を区別もしています。これは無意識でそうなります。

大きい音も人より苦痛を感じます。

 

これらが重なった状況、例えば都会のターミナル駅などにいくと、

目に見える物は全て記憶しようとし、耳には勝手にいろんな音が聞こえてきます。

脳が過活動状態とも感じます。

 

なのでターミナル駅はすごく疲れます。

脳をいつも以上に使うので。

 

そして、たくさんの人と関わる時。

私が人と関わるときは、自分の経験値に貯めた引き出しの中からさまざまなケースを検索して、その時にあった関わりをしようとしています。

普通の人が当たり前に関われる事が出来なかったりするからです。

すごく気を使っています。

多分普通の人が思うより細かいことに気を使っています。

(それでも上手くいかない事があったり、もっと気を使えって言われると、物凄い凹みます)

 

これも脳がフル稼働状態です。

 

これもまた、ひとりになると安心します。

 

これらの疲労は、決して怠けているわけではなくて、

必死に社会に適応しようとしている結果なのです。

それをわかって欲しいという思いは常に私は感じています。

 

この「ひとりになってクールダウンする」、という方法が身についていれば、割とストレスを溜めることなく過ごせるのかなって言う気もしています。

 

我が家の子どもたちは、学校から帰ると、三者三様で一人の世界になってクールダウンしています。

それが分かるので、何をしているんだろうと思ってもそっとしておきます。

 

そうやってバランスをとって生きていくのが最良の方法なんだと思います。

 

 

やってみもせんで何が分かる。教育実習先の内諾が取れた話。

『やってみもせんで、何が分かる』
HONDAの創設者、本田宗一郎の名言です。

私が好きな言葉の一つです。
2012年にはこんなCMも話題になりました。

私は、来年度教育実習を予定していますが、通信制大学のため基本は自己開拓です。
自己開拓の場合、基本は出身校に依頼する事が慣例となっているようです。
それでも難しい場合は住んでいる地域の学校に依頼してみなさい、という大学からの指導でした。

しかし、自己開拓で出身校以外での実習は難しい、あるいは無理だと言う回答も知恵袋界隈ではあったりもします。

だから、無理なのか。
やれないのか?

いいや、「やってはいけない」というルールがない限りやれるでしょ。と私は不安ながらも行動に移すことにしました。
100%の自信があったわけではありませんが、まぁなんとかなるだろ、という気持ちは常にありました。

まず、居住地の自治体の教育委員会のサイトをみると、来年度の教育実習要項が既に掲示されていました。
そこには、実習の受け入れ条件として
「出身校で行うこと」と…。

やっぱりか。

でも、私は突撃しました。
教育委員会に問い合わせてみたのです。

条件には出身校とあるが、私は通信制大学で免許取得を目指していて、結婚してこの市に住んでいるため出身校ではないが、近くの小学校にお願いしたいのだか、そういう事は可能でしょうか?

という内容の件を尋ねました。
すると、

受け入れ校で事情を話し受け入れ可能と言えば(市教委としては)問題ありません。

との回答をいただきました。

そして、勇気を出して、希望する小学校(住んでいる学区の隣接校)に問い合わせました。

あいにく教頭先生が不在だったためか、教務主任の先生が話を聞いてくださり、
後日返事を頂けることに。
その際気にしていたのは、大学側が出身校でやれと言ってないか?という事でした。
大学は通信制なので基本は自己開拓と言われています、と答えましたが。
そして、私から、教育委員会に問い合わせた件も伝えると、「市教委がいいって言ってるなら」見たいな雰囲気にもなったので、
事前に問い合わせたのが功を奏したかもしれません。

そして、数日後、受け入れします、との返事!

これで近々受け入れ校へ面談へ行き正式に内諾となる予定です。

これで、卒業&免許取得がもうすぐ手の届きそうな所まで来ましたよ!

やってみなきゃ分からんのです。
こういう事もあるのです。

最初は何件も断られるのを覚悟で挑みました。それでもダメなら隣市まで手を伸ばすか、大学に泣きを入れるか(笑)のつもりでした。
大学にもガイダンスの時、相談したのですが、困ったら何とか出来るよう力になるから、と言ってもらっていたのも心強かったかもしれません。

冒頭のHONDAのCM。
続編で、

こんなものもありました。

『自分の限界を、自分で決めていないか。
過去の常識に縛られていないか。
本来、人間は自由な存在だ。
自由であるはずの人間が、自ら自由を手離してどうする。
しょせん限界も常識も過去のもの。
自由な創造を邪魔する過去など、忘れてしまおう。
新しい知恵で困難に立ち向かえ。
時代の先をゆけ。
今までの枠の中に、未来はないのだから。
そう、僕たちは、なんにでもなれる。
僕たちは、どこへでもゆける。
枠にはまるな。』

努力は報われない事もあるが、努力しなければ夢は叶わない。

押してだめなら引いてみろ。

私のこの経験を子どもたちに伝えていかなければいけない義務がある。たぶん。

生活に優先順位をつけることと人生の取捨選択の仕方

私の20代は人に語れるほど偉そうな人生を歩んできてはいませんでしたが、
この時に学んだことのひとつ、
それは「物事の優先順位のつけかた」です。
これは仕事の仕方として教えられ習得したことです。
この「優先順位」というものを瞬時に判断できる力というのが、以後の人生にもとても役立ちました。
そしてなにより子育てシーンで特に役立ちました。子育てというのは、なりふり構わず次から次へと様々なタスクが要求される24時間365日年中無休の仕事です。
大抵、ストレスと感じる時というのは、

あれもしなきゃ、これもしなきゃ、でもできない、あれもできない、これもできない、あー私ってダメな母親。

というパターンが最多ではないかと思われます。

その時必要なのが、「優先順位」をつけるということです。
(1)今すぐやらなければいけないこと
(2)今すぐではないけど近いうちやらなければけないこと
(3)やらなくてもなんとかなるがやりたいこと
(4)やらなくても必要のないもの
大雑把に言ってこんな感じ。

「やらなきゃ!」と思った瞬間に、それがどの順番になるのか考えて整理します。
そして、(1)と決まったものから手をつけていくのです。

そして、そこからさらに学んだこと、
それは「取捨選択」ということ。

あれもこれもやりたいと思ったことには全てに手を出せていた10代。
それも、社会的な立場や人間関係など社会性が大いに発達してくると、やりたくてもすぐにはできないことというのも増えてきます。
子育て中ももちろんそうです。
(ちなみに、人間の社会性は35歳くらいまで発達をし続けるそうです)

そんな時に、いわゆる「人生の選択」というターニングポイントがやってくるのです。

私はそういう時どうするか、というと、

10年後の自分をイメージします。

10年後、自分はどういう人になっていたいのか、そういうことをイメージします。
ここに「可能か、不可能か」の議論はありません。
とにかく「なりたい自分」を想像します。

そのイメージが決まったら、次は、そこから逆算して、

そういう自分になるためには何をしたらいいか

をリストアップしていきます。

あるいは、
そういう自分になるためには何をすべきか、を考えて、今自分がしたいと思っていることに優先順位をつけます。

そして大事なのは「取捨選択」です。

いわゆる「捨てる勇気」これです。

今の時代は豊かすぎて物にあふれています。だから「断捨離」という言葉が流行するほどです。
本当に必要なものを残し、それを大切にする、そういうことが断捨離の意味合いでもあるんじゃないかと私は思っています。(物への執着を捨てる、というのが断捨離の根本ではあるようですが)

人生においても、岐路に立たされた時、本当に自分にとって大切なものは何か、自分に残すべきものは何かを判断し、それ以外のものを捨てること。
必要なものの判断ができても、それ以外を「捨てる勇気」が持てないと、結局「二兎追うものは一兎も得ず」になってしまうのです。

「捨てること」は勇気が必要です。物を捨てる時と同じで。
でも、その勇気の先に「成功」がある。なりたい自分がそこにいるのです。

人生は「取捨選択」の連続です。
失敗したらまたやり直せばいいのです。全ては自分の人生です。

捨てる勇気が持てない方は、まずは優先順位を付けることから始めてみてはいかがでしょうか。

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